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2012/11/30

父親へ。


少し気持ちが落ち着いてきたことと、少し気持ちが楽になってきたので、今日ブログに投稿してみました。

出来事や言いたい事をSNSに投稿することが当たり前の今ですが、今回の出来事はSNSには投稿するような内容ではないというか、周りにシェアすることではない気がしたので、ブログに投稿することにしました。
最近のこういうのって難しいですね。



今回は私の父親のこと。

写真の隅で頬杖をついているのが私の父親。確かこれは二年前のGWに二人で母親の墓参りに行くときの途中で、昼食を中華料理屋で食べたときの写真。

私の父親は家族に対してはわがままな方で、周りには口下手な方で、よくいる大人し目の一般的な父親です。

どちらかと言うと私は父親が好きな方ではなく、小さい頃は良く怒鳴られたり、叩かれたり、目の前で夫婦喧嘩をされたり、家族で外食をした時には自分の食事だけが遅いことに腹を立て、ウェイトレスさんに「遅い、もういらない、戻してくれ。」と言って空気を乱すわがままな性格や、小さいことにすぐ腹を立てるところが子供心に嫌でした。

ただ女性に対しては真面目で、しっかりしており、私が二十歳のときに他界した母親に対して、亡くなった今でもずっと愛してる気持ちを持ち続けている、態度で示している、そこは心から尊敬できる素晴らしい父親です。





そんな父親が先日の11月27日に他界してしまった。

享年74歳。誕生日を前日に控えての他界だった。

他界するちょうど一ヶ月前に父親の様子を見に帰省したのだが、以前会ったときに比べてかなり痩せていて、すごく体調が悪そうだった。父親は徐々に老けてはいたが、ここ一年で急にだった。

病院に行かない、健康診断も行かない、そんなずぼらな性格だったからたまに体調を崩していたときには「そらみたことか」といつも思っていたのだが、さすが今回は心配だったので病院に連れていき診断をしてもらった。

病院で診察をしてもらい、時間もあったので細かく検査もした。
検査を終えてしばらくしてから診察室から呼ばれたのだが、呼ばれたのは私だけだった。
嫌な予感がした。胸騒ぎが止まらなかった。
そして案の定、癌を告知され、しかも末期癌だと言われ、余命は少ないと言われ、目頭が熱くなった。

まさか、だった。父親は大人しいし、太い人生を送っていたわけではないから、お爺さんになって、よぼよぼになって、歯が抜けて入れ歯をして、つるつるに禿げて、目も見えなくなって、寝たきりになって、最後はゆっくり息を引き取るものかと思っていたから。



とりあえずその日は父親に告知はせずに入院することになり、二週間ほど入院をさせた。
兄に連絡をし、お互いにもう仕方ない、いつかのことに備えておこうと言い、その日からはできるだけ父親の見舞いに行き、コンタクトを取るようにした。
思えばたまたま今年は父親と会う機会が少なく、それをこんな機会に埋め合わせるかのようで、すごく悲しかった。



そこから二週間ほど入院し、体調も回復し、顔色も良くなり、「病院の飯は不味い。食えたもんじゃないな。」 といつものわがままと言うか、いつもの父親に戻ったのでなんだか希望が持てた。
その二週間の間に父親に告知することにし、父親もショックではあったが抗癌治療をすることを望み、少しでももっと生きたい、もっと楽しく過ごしたいと思っていたのだと思うと心から支えてやろうと思えた。

抗癌治療をすることになったので、退院することも許され、家でまた暮らせるようになって父親も嬉しがっていた。



私達兄弟がまだ二十代の頃、父親は私達兄弟が家を出ると、夫婦の時間ができたことで、母親とまた恋人同士の様な時間を二人で過ごしていたらしい。良く二人で旅行に行き、良く二人で買い物に出かけ、良く二人で飲みにも言っていたようだ。
そんな風に過ごしていたから、最愛の母親が他界してからは、正直可哀想で、これからの人生寂しいだろうなと思っていた。

母親が他界して一人になってからは、新しい友人が増えたそうで、年に何回も友人同士と旅行に行ったり、友人が集う飲み屋で毎晩の様に集まり、麻雀をしたり、語り合い、笑い合い、唄い合い、飲み明かしたそうだ。友人との集いが楽しくて仕方がなかったらしい。
だからこそやっぱりそうやって二人で、家族で過ごしてきた家にどうしても戻って、また友人たちと沢山遊んで、思い出を作って、人生を謳歌したかったのだと思う。



退院して二週間経ち、何度か連絡を取りながらも週末には帰って会ってはいたのだが、また調子が悪くなり、再入院をすることになった。
再入院をする前の先週の土曜日に会いに行ったのだが、また痩せており、見た目がすっかり病人になってしまい、どうしたらいいのかわからなかった。

ただ「買い物を頼みたい。かき氷が食いたい。カステラが食いたい。あんみつが食べたい。」などあれが食べたいこれが食べたいといつもの父親のわがままを言っていたので、少し安心しつつ、「調子が悪い。もうあまり動けなくなった。」と言っていたけど、大丈夫だろう、再入院すればまた元気になるだろう、アイスを食べる父親を見て信じていたのだが、それが最後の会話になってしまった。



二日後の月曜日に再入院してから次の日に容態が悪くなり、兄からもしかしたらもう永くないかも、今夜が峠かも、と言われ、本当に何で急にこんなことになってしまうのか理解できなかった。
その日に会社を早退して病院に向かい、父親の入院している個室に入ると、もう何もかもが違っていた。

辛かった。悲しかった。あまりにも最後に話したときと違う、呼吸器を付け、喉と顎と肩で呼吸をしている父親の姿、悲しく響く心電図音と映し出す数字と波形、ああもうだめなのか、ついにこのときがきたのだなと、全てを受け入れるしか無かった。

だからこそ死を控えて多分恐怖も感じている父親には、悲しさがわかるような泣き声ではなく、いつのもようにぶっきらぼうな声で、安心して逝けよ、人生楽しかっただろう、今まで本当にお世話になったね、ありがとう、と笑って声をかけて最後まで見届けて、あの世に送ってあげようと思ったけど、できなかった。
多分耳がもうあまり聞こえないだろうし、目も見えないだろうし、反応もできないのだろうと思ったから、顔を近づけて、目を見て、耳に近づけて、安心させようと声をかけようと思ったけど、その変わり果てた父親を見ると、どうしても顔が崩れた泣き顔になり、涙がいつまでも止まらず、声が震えて出ず、笑ってなんてとても言うことができなかった。

だけど生きてるうちに一つだけどうしても伝えておきたい、言っておきたいことを言うことにした。

「今までありがとう。」

その一言を言った途端、何かの糸が切れてしまったようで、全ての力が抜け、私はうずくまって泣くことしかできなかった。



それから一時間後くらいだろうか、父親は他界してしまった。

兄の嫁と娘がこちらに向かっていたのだが、間に合いそうもないと思い、兄が携帯電話越しに娘の声を聞かせようと携帯電話を父親の耳に当て聞かせると、父親は頷いていた。

最後の最後まで意識があったようで、癌の病状が進行していなかったのでモルヒネも打たず、意識が無くならず、苦しまず逝けたようだった。だから心電図の映し出す数字が0になったときに父親のまぶたが自然と閉じたのを良く覚えている。



それからは本当に何もかもがバタバタで、忙しかった。
他界してからの手配、葬儀の準備、諸々やっと終わったのが今。

これで私の血縁の家族は兄だけになってしまい、実家も無くなり、帰るところも無くなってしまったが、それが人生であり、またこれからどうなるかわからない。



しばらくはちょっと気持ちが落ち込んでいるからあまり外に出れないかなぁ。
早くまた自分のいつも通りの毎日に戻ることを望んでいます。





父親へ。

天国でまた母親と一緒に仲良く過ごしてください。夫婦として、恋人同士として過ごしてください。
私は大丈夫です。最後まであなたに心配をかけていた息子ですが、何とか頑張ります。
本当はしてあげたいこと、言いたいこと、沢山あったのだけど、できなくてごめんなさい。
そして最後に伝えた気持ちは受け取ってくださいね。

「今までありがとう。」

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